9月20日増本泰斗

 

他所からある土地に移り住む。その土地に根を張り、新しく土着の民となる。僕は十年前に出自を大変気にする土地に移り住み、ひとまずの根を張りかけている。しばらくしたら、張った根を掘り起こし別の土地に移すかもしれない。それがユーラシア大陸の西端となるか、日本列島の南となるか、さあどうだろうか。しかし、どこかに根を移すことはそれほど容易いことではない。止むに止まれず根を移さないといけないこともあるが、それでも移した根を広げるとなるとなかなか難しい。それはどこでもいつの時代でもそうだろう。

戦時中から戦後すぐ頃、青森県津軽地方に鎮座する独立峰岩木山の東麓に、どこからか入植し立派なリンゴ園を造った者たちがいた。岩木山は岩の山であるため、表土を掘り起こすと大きな岩がゴロゴロ出てくる。それらを取り除き、木々の根を抜き取り整地して耕す。大地との格闘を経て生計を立てられるほどになるまでにどれほどの労力を要したのだろうか。リンゴ園の面積がそのことを如実に物語っている。

ある時、日々過酷な労働に勤しんでいた人々は毎日仰ぎ見る岩木山に登拝するための登山道を自ら開削した。他に登山道がなかったわけではない。しかし彼らは、いずれの登山道も借りることなく山麓から山頂までの道を独自に敷設した。名を弥生登山道という。弥生登山道は、岩木山に現存する登山道のなかで一番新しいものになるが、その他の登山道にはない特徴がある。それは「合目」という表現と標識で山頂までの道が区分されていること。これはその他の登山道には存在しない。あるのは、「姥石」、「大開き」、「七曲り」などその場所の地形や特徴を名付けた目安が存在するだけである。つまり「合目」という概念が、岩木山山麓一円に元来存在しなかったことを意味している。おそらく、入植者たちが他所から持ち込んだ概念なのだろうか。ちなみに、入植者たちの出自記録を見ると、その大半は近隣の村からだったが、中には、北海道や樺太、満州からの引揚者も含まれていた。余談だが、その中にはその後、ブラジルへと渡って行った家族もいた。

僕はこのエピソードにすっかり魅了されてしまった。とにもかくにも、弥生登山道を辿って頂上まで登らなければならない、などと勝手な使命感に駆られる。正直言うと、これまで「登山」というものを敬遠してきた。道なきところに自らルートを引きながら頂きを目指す「沢登り」に傾倒していたためか、誰かが敷設した道や明瞭な踏み跡を辿ることに興味を持てないでいたから。しかし弥生登山道の歴史が、明瞭な道でも不明瞭な何かしらが潜んでいることを僕に教えてくれる。書物やインターネットを貪っているだけでは決して分からない何かがあると言っている。弥生登山道とは一体何なのか。入植者たちにとってではない。むしろ時空を超えたかたちで享受できる現在の我々にとってであり、単純に「移住」や「山岳信仰」に留まらない何かしらであるような気がする。とにかく、今すぐにでも登らないといけない。謎の使命感が沸々と湧き上がる。

 

© 2020 Hirosaki Museum of Contemporary Art

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